昭和42年8月19日 朝の御理解


 昨日夕方でございました。ここの若先生の小学校時代の友達で、椛目時代に死にたい、死ぬか生きるかといったような感じの問題で、その為に死を決したと、いうなら死を決した先祖の墓の前で睡眠薬を飲んだりしたというように、若いけれども一つの問題に直面してですね、この世に生きておることがいやになったというような難儀なところを通って、そして椛目の小学校時代の友達のところに訪ねて来た、それで兎に角あの金光様にお参りして昔の友達であるところの大坪君の話を聞いてみれというようなことで、三月の頃のことでしたから、丁度ここが椛目からここへ移るちょっと前ぐらいのことだったでしょうか。お話を聞いて行くうちに大変おかげを頂いてそれは、親子の人間関係の問題でしたから、泊まり込みでおかげでおかげを頂き、又その友人の家に泊まってそこから毎日参って來るといったようなことでした。
 段々おかげを頂いて分からせて貰って両親の方へ帰りました。両親ももうお前のような者はと云っておったけれど、何日ぶりに帰って見ると大変喜んでそれ以来親子の仲は「   」いっているという。それでいっぺんお礼参りさしてもらわにゃならんと思いながらつい今日になったというのでございます。
それでそのお話一緒におらせて貰って、若先生がその後どうして参って来んのかと言っていた。どうしてなのか、それもこんなにおかげ頂いておるのだけれども、こちらの親先生がお話の中に参って來るばかりが能ではないと云う、その御理解頂いた。それで参って來る、参るばかりが能じゃあないのだから、お参りせんでも自分の心さえ治めてゆきゃあいいと思ってお参りをしなかったとったようなことを言ってるんですよ。これはうかつには御理解もですね、成程話を聞くばっかりが能ではない。吾が心からも練りだせといったような調子の御理解だったに違いないですね。
 参って来たばっかりではつまらんよ。教えを行じなければ何になるのですかと云ったような御理解を頂いたんじゃないでしょうか。だから参るばかりが能ではないのだから、まあこちらに頂いておったお話を元にして、親子関係の上に商売の上にも、精を出さして頂いておるところは、三月からこっちこの方というものは、親子も非常に円満に具合いよく、商売の方も順調よくおかげを頂いておる。ですから、本当にそのお互い御理解、御理解を頂くと云うことでも、頂きようによって、大変違って來るのですね。そいじゃそれで、最近自分が商用的な信心を元にしてというけれども、その当時頂いておったことを心に掛けながら、何かと云うと金光様を唱えてやっておると云うのです。ところが最近運命論と云う書物を読ませて貰っておる人なんですね。当時から。書物を読むことが道楽といわれるくらいに書物を読む青年なんですが、運命論と云ったようなものを研究する訳ではないけれど、書物を読んでいろいろ考えたことがある。
 大体手相なんかと云うのは、先生横着でしょうかと云ったようなことを言う。そうですよ、矢張り手相は手相の私は知らんけど、やはり系統建てると一つの学問になる。易学と同じこと。易を立てるという大変な、これは学問になる。家相、人相、骨相、お墓の相まである。それから私共の使っておる判子。ここにお参りしておられる笠さんが、ここに始まる頃なんかは、自分は他に凝る事は無いけれど、判子に凝る。東京から一ヶ月ぶりから判の判相易学を見る人が見えましてね、判子を作る。そりゃあもう実印、銀行印、小さな認印に至るまで相があるそうですから、あなたは水晶で作りなさい。あなたは水牛で作りなさいと云う風に作って、品や形を定めて貰ってからそれを使用する。そういうようなことでも、やはり一つの迷信とばかりとは言われない。確かにそういうきちっとした計算と同じ事で、五に五をたすと十になるような、その学問を元にすると、例えば名前の付け方一つでもそういうことになってくるらしい。勉強しとかないと分かりませんけれどもそうらしい。
私はその支那におります頃に、「えいせいぼん?」と云う、云うたらいいかねえ。大変有名な話があります。その方が書いた書物を日本語に訳してくれと頼まれたから、支那語で日本語の交換する大学の先生がおりました。支那人です。その人と大変難しいですから、勉強しながら訳して上げたことがあります。その方が大変な学者でございますが、ある時に偉い坊さんと色々なお話合をした。その気心が合うというか、一晩中話をしたけれども、眠気もでてつかない。ますますその話に興が乗って一晩中話明かしたとこう云うのである。それでその坊さんが、夕べから一晩中こうして話をしてあなたの心に中に一つも乱れた事を感じなかった。何か秘訣があるのですかというて、そのお坊さんが尋ねられた。いいえ別にその秘訣がある訳ではないのですけれど、人間には一つの定まった運命と云うものがあります。私は若いときに当時の大学、支那語ではほかの言葉もってしますが、小学校は優等で出て、中学校、大学でも優等で出られる。就職もどこどこにする。何年何月には妻帯する。何年何月には何処何処に栄転するといったようなこと。そしてあなたは何才が寿命であるという易学の大家から易を見て貰った。ところがあなたは、子供が出来ない。そういう成功をするけれど。そこでそのそういうように聞いたところが、実に一分一厘間違わんように、そのとおりになって来てる。だから人間はもうバタバタしても同じなんだと、その運勢運命と云うものに定まってあるのだから、私が何処で一晩中お話をしても心がぶれないと云うのは、そういう一つの定款、人間はバタバタしても同じだと云うようなものがあるのが、おそらく自分の心の中に安らぎと安心があるのではなかろうかと言うて言うた。
 したらその坊さんがカラカラとうち笑って、こりゃ見損なうた。一晩中あなたと色々話をして大変有意義だと思ったけれど、そういうことでは詰まらんあなたであったかと言うて笑うた。片一方も息まいてそれはどういう訳かと。あなたは子供が出来ない。成程子供は出来ない、はいそうですかと言うて、跡継ぎは要らんのですかとこう。はいそうですかと言うて、そりゃ欲しいのだけれども、論より証拠、何十年間に現れてくるそれと同じ様なことが、私の上に現れて来たんだから、同時に子が出来ないと言うたらやっぱり出来ないのだ。これは人間の運命だから仕方がないんだと。その時にぼんさんが、それならそれでいいけど、人間はそんなことではつまらん。ここに例えば、信仰がある、宗教がある。宗教はその運命を作り替えて行くものであると云うことを、宗教論を今度は運命論から宗教論を説いたのですね。そのような頭のよい人でしたから翻然として分からせて頂いた。もう相当年を取っておられたけれども、子供も出来、それから易の上に死ぬると言われておった年も越えて長生きをしたとい話、そういうようなことを書いた本でございました。それで私はその話をしたんですね。
 実は私は支那人のそれではないけれども私もその運命論という本を読んでですね、まあ、人間バタバタしたっちゃ同じことだというような気持でおったのにといったよううなことを話しておりましたけれどもですね、これは余談になりましたけれど、宗教、信心と云うのは、例ばない命が助かると云うような、ね、もうその人のおかげの運はない、備わらないと云うような人がの金満家になれると云うようなおかげを受けられるのが信心なのですよ。それでその或方に杉清さんが話をされた。杉さんも地獄極楽ちゃ、この世にあるばい、あの世はなかばい。この世にあるとよ。みんなが云うことでございますね。地獄極楽はこの世にある、本当云うたらあの世にもある、この世にもあるわけなんですけれもも、あの世にもある、この世にもあると云うてもこの世にあると云うたところで、○○さんそれは違うよ。極楽は地獄は自分の心に中にあるとですよ、と言うて自分もとても有難かった、ね。思いがけ自分の口から出ですね、たのか、地獄極楽は自分の心に中にあると云う。確かにそうなんです。教祖もそこんところを「用心せよ。心の鬼が我が身を責めるぞ。」と仰る。どんな金満家の人でも、それこそ日々焦燥、腹立ち、ね、様々な難儀に心の難儀にさいなまされてる人もある。ここではやっぱり、この世に地獄界にいたあの人たちこそ極楽じゃろうという人たちが極楽でないことが分かるでしょうが、ね。それこそ月が差し込むような藁屋に住んでおっても、一日が有難い、勿体ないと云う充実した一日を過ごしておるなら、それこそが極楽であると云うこと。成程地獄極楽はこの世にある、あの世にあると云うのではない。自分の心の中にあるんだというところにです、宗教の必要性がある。分かるでしょうが。 ですから、そういうようなおかげを頂いて行く為には御理解の頂よう、頂方と云ったようなものがです、例えば楽な方へそげん参って来んでよいぞと言われたから参らなかった。
 教祖の神様はです、お供えとおかげは交換じゃあないと仰る。だからお供えをせんで良いと仰るのじゃあない。実際に自分の命とも思われる大事なものでも、だからおかげなんか命ですよね。食べ物もそうです。おかげなしては生きて行かれんのですから、お米なしては生きて行かれんのですから。着物なくしては生きて行かれんのですから、その自分の命とも等しい様なものがです、それが神様に喜んで頂けれる事になってくるのは、そういうものを自分から外して行くからお供えの値打があるのですよ、ね。
 どれだけお参りすればよかろうと云うよりも、なぜ毎日お参りすると有難い。いや、そうさしてもらわなければおられないと云う心の中に和賀心があるのです。
親鸞と美代吉の対話を又思うて見るといいです。
「  」お説教があっておる。毎日それを拝聴しに行くわけです、その上人様が時には一番前に座ってからご理解を拝聴する。ご理解というのはお説教でしょうね。あるときに上人様がその美代吉よ、美代吉よ、お前はこうして毎日毎日お参りしてお話を頂いておるが、どういうような信仰を自分の心の中に頂いておるか。どういう信心生活をしておるのかと問われた。それを美代吉さんが親鸞上人に対してお答えしたことがです、仏教のお釈迦様が説かれた中に十八願という十八の願い、神の願いと云うものがある。
 天地の親神様の悲願、いわゆる仏教で言やあ如来様の願いと云うのがある。落ちて行く身は十八願のうちと思えば危なげはなし、とお答えしたということです。たとえ自分が地獄に行っても、その地獄の中とても如来様の懐の中だと悟っておりますとこう言った。神の願いと云うのはそれなんだ。降っても照っても有難い。自分の都合だけじゃあない。降っても照っても有難い、自分の都合によると降らんがよか、照るがよかと思うけれども、本当云うたら、天の親神様の働きの中にゃあ、降ることもありゃあ照ることもあるのであるから、それも親神様のお恵なんだと悟ったとこういうわけ、落ちるこの身は十八願のうちと思えば危なげはない。美代吉はそれ程しの心を開いておるならば、毎日ここに参って来んてもよいぞ、うちで信心生活が出来るぞということを云われた。素晴らしい境地が開けて来た訳なんです。そこで美代吉さんが又答えたのですね。けれども日々こうして親様におご苦労かけておると思うたら、家にはじっとしておられないとお答えした。信心の妙境と云うのはそれなんです。
 金光様が朝の四時から一日中御結界にお勤め下さる。それこそ降っても照っても私共氏子の上に日夜お祈りを送っておって下さる。
 親先生がこの暑いのに日日私共の為に御結界奉仕をして下さる。そのことを思うたら、うちにおってじっとしてはおられないと云うところに信心の妙境、有難いと云うのがある。そういう心を開いて行くところに運命の展開、どのよう判を持っておっても良い。どのような・・・?おっても構わん、どういうような普通で云うなら、どのような家相の悪い家に住んでおってもええ、ね、いわゆる易学もなからなければ、手相もない人相もなければ骨相もない。ただあるものは、有難いと云う程しの真に有難いと云う心におかげが頂けるという、いわばそういうのを本当にあろうけれども、実を云うたら天地の働きをもってすると、そりゃあもう実に小さい事柄なのです。だからたとえば、「 」坪もあるこのようにお広前が出来たのですから、そこに家相のうえから云うたら家相の悪いところがあるかも知れんけど、そんなことは問題じゃあないと云うことになって來るから、教祖はそこんところを使い勝手のよいのが良い家相じゃと仰った。どんなに良い今日は日赦日と云うても、今日はどんな良い日だと云うても雨が降ったり嵐があったりしたんではよいお天気とは云われまいがと仰った。
 お天道様の照っておられる、天道様のお日照りがあっておる日であったら、もうそれが一番よい日じゃと云うふうに教えておられます。 ですから金光様の御信心はそういうようなあり方の中からしか生まれて来ない。喜代司さんの話じゃないけれど、地獄極楽は自分の心の中にあるのだと、心配があるのなら極楽じゃあないのだから、それをここに持って來るのだ。いらいらすると、金光様金光様を念じておると心のいらいらが無くなってくるのだ。そういうおかげをいよいよ頂いて行かなければならん為にはです、便利なことばっかり考えておったんでは、そういうおかげは頂きかれませんですね。
 楽はしようと思うな。楽はさせて頂けとこう仰る。
昨日中村さんがお届をされる。先生あの清が清さんが養子さん、ばあちゃん今度あの福岡に嫁行っております妹の恵美子さんの婿と話し合ってばあちゃんを雲仙に連れて行こうと話し合って、ばあちゃん何処にも行かんから、前は毎月毎月私が御本部参拝するから必ずどんなことがあっても、ご本部参拝しよりましたが、あれが楽しみだったが、この頃何処にも連れて行かんけん、兄妹二家族で一晩か二晩泊まりで温泉に行こうと、ばあちゃんがそんなことより椛目参りがよかろ云う。折角私どんが言いよるのにと、あんたそげんこと言てから子供達が腹かくと昨日ここでお届があったです。
 そりゃあ中村さん、子供孝行に行かないかんよと私は申しました。夕べも娘達がお参りしてきてお届しますから、娘さんにはもう一度本気で親孝行しなけりゃいかんよとはなししよりました。子供が喜ぶように、親は又子供達が喜ぶ為に素直になってそんならばと言うて、今日お参りによっておられました。もう自分で温泉に行こうたあ思わん。本当に月一ぺんくらい温泉と云うてもそこらの仕方のない所へ行ってから、一日温泉で歌ども歌ったりお弁当を食べたりすることを楽しみにしたりしているお年寄りもある。本当にもう兎も角、信心のない人達はそういうことです。ですから信心は一番有難いのである。楽しいのである。けれどもやはり、それがいけないのではない。子供達が自分で楽をしようと思わんけれど、神様がさして下さろうと云う働きがある時には有難く受けて行かなければいけない。楽はしようと思うてはならん。させて頂かなければならん。させて下さるのである。そういう中に私は本当の極楽と言うものがあると思うのですよねえ。・・・?行ったていかんにゃあと云ったところの中には決してよかったよかったと云うたって、温泉に行ったってほんに温泉に行っておるだけです。帰って来たらもう、かえって五体がだれてから、かえって行かん方がよかったと云うことにもなってくる。お芝居に行った、見てる間だけ、もう帰って来たら又元のもくあみの中に戻らなければならん。それでは有難い有難いの連続のおかげを頂く為に楽をしようと思うちゃならん。させて頂かなければならんと云う様な、そういう信心をです、いよいよ身につけさせて行くことにならせて貰わなければならんのですから、これから楽な方を取らずに難しい方を取らせて頂くと云うくらいの気持ちでおかげを頂いたらいいです。お日参りをするというても、日に一ぺんだけ参りゃあよかろうもんと云うだけではいかん、折角お参りするなら少しは朝眠い修行をさせて頂いて朝参りをさせて頂こうというように、そういうところに私は工夫がならなければよい信心はできないと思いますね。どうぞ